大学生の日常。

陰キャ・陽キャ論

ふと、大学生の自分は「陰キャ」に分類されるのかどうかと考えた。

その枠組みで考えれば、確かに陰キャなんだろうと思うけど、自分にはその自覚がない。それは、陰キャだとか陽キャだとか意識する考えを捨てているからだ。

 

高校生の頃は、学生はみんなスクールカーストを意識していた。うるさくて声のでかい、恥ずかしがり屋でない人がカースト上位、そうでない人は下位だ。女子には顔のかわいさも相関してたように思う。ただ、普段おとなしい人でも学内イベントでは活躍して注目されていた人もいたし、ただのつるむグループの違いなんじゃないかっていう違和感はあった。

大学生になって、タンデムアプリで外国人の女の子のインスタグラムを見せてもらったときに、ずいぶん前からアカウントはあるのに投稿数が少なかった。「あんまり投稿しないんだね」というと、「インスタは友達と連絡先を交換するためだけに入れてるの。あまり自分の思い出や写真を他の人と共有したいとかは思わないな。」と彼女は言った。

これが自分にとってものすごい衝撃的で、現代人、特に女子がSNSで他人と共有して、自分を表現することがなんだか正解のような感覚でいたからだ。そして、それらをやらない人は「やらないような人だからカーストが低い」という感覚でいて、実際それには(少なくとも自分の母校では)ある程度相関があった。それだけに、直接自分は共有云々が好きじゃないといわれたのには驚いたし、そのような同調圧力SNSをしていた自分には青天の霹靂だった。思えば、自分には好きなものがあって、インスタにキラキラしたものを無理やり上げなくても十分楽しめるというのに、わざわざ自分からそのような枠組みに自身を入れ込んで苦しんでいたのだ。「陽キャ」のような行動をしない人が誰もかれも陰キャであるなら、世の寡黙な人間たち(特に中高年をイメージしてほしい)もみんな陰キャということになってしまう。でも、それって変な感じがするし、明らかに間違った考えだ。現代に急速に広まった考えを、それ以前の人たちにあてはめてカテゴライズすることもナンセンスだけど。

インターネットの普及によって注目されるようになったのは、マイノリティーの意見ではなく、声のでかい人の意見だ。その人たちの発言や行動がだんだん「正解」であるかのような雰囲気になっていき、それが日本特有の同調圧力にとって実質的なカーストと化した。その考えから抜け出そうにも、もはや日本のどこに逃げたってインターネットにはそのような考え方が蔓延しているし、「陰キャ」たちは結局自分はどうやってもダメなんだと勘違いしてしまう。そうではなく、「自分はこれでいいんだ」という強い意志を持って自分のしたいことに専念すれば、そのような考えにとらわれている大多数の若者におまえは陰キャだといわれようが、ぶれることのない人間になることができ、そのひとは「陰キャ」の肩書を捨てられるのではないかと思う。