大学生の日常。

あるモノとあるべきモノ

最近、いろんな作品を見ていて思うこと。

 

よく美談や正論として描かれることに、自由や平等、機会均等といったトピックがある。確かに、それらは実行されるべきものだし、それがなされれば理想的であるものだ。

しかしながら、私たちの生きる世界には必ず歴史が存在する。歴史によって生まれた制度やルール、決まりごとはジェンガのように組み立てられていて、無理に大規模に変えようとすると音を立ててすべてが崩れていく。また、少しずつ良い方向にもっていくことはできてもそれは膨大なエネルギーを要することであり、そのために人生を棒に振ることだって十分にあり得る。

私たちがそんな中で生きていくためには、自分の生まれがどの立場にあるのかを自覚し、誇りに思い、その立場が持つ特徴や性格を最大限に活用することなのだろう。

例えば、私やこれを読んでいる人が全員「日本人」だと仮定する。日本人が持っている特徴とは何だろう。パスポートの効力はすごくて、世界のほぼどこにでも訪れることができる。欧米諸国に行くと、目を吊り上げて馬鹿にされる。可視的な職業の縛りはなく、どのような職業にも就くことのできる可能性がある。…

もちろん、利己的な親を持っていたり、家のお金がなかったりと、生まれてくる人間が平等であるなんて言うつもりはない。ただ、自分の身の回りの物をしっかりと観察して、自分がどのようなカードを切ることができるのか、そして自分が違う立場であればどのような経験をすることができるのかを知ることは、少しでも理想的な人生を歩む第一歩になるのだと思う。とくに、現代では能動的な人生を強いられている人が増えてきている。自分のいきたい道が整備されているのか茨の道なのかくらいは承知の上で進むべきなのだろう。

「ピアノの森」と世界観について

こんにちは。viviです。

今回は、漫画を読んで久しぶりにブログに書きたいことが思いついたので、
作品とともにいろいろ考えたことを書いていきます。

ピアノの森(1) (モーニングコミックス)

今回読んだのは、「ピアノの森」という漫画。1998年に連載が開始され、2015年に完結したのちに最終巻26巻が発売されています。

マンガのあらすじとしては、森の奥底にあるピアノを弾いていた少年が、様々な出会いの中で自分の中にある才能を溢れ出していく。というような内容です。

細かい話は一回読んでください。漫画から音や情景が鮮明に浮かび上がってきて、最後の一ページまで読者を飽きさせません。

 

とても素晴らしい作品なので別段けちをつける必要もないのですが、気になった、というか落としどころがわからない個所が一つ・・・読んだ方ならわかるかもしれませんが、主人公カイの恋人の存在がすごく気になるところです。

私からすると小学校のコンクールの話がとても重要に感じられるため、そこでのつながりを後々も大切にすると思ったんですけれども…、恋愛にいちいち意味をこじつけるのも野暮な話ってコトかな??

 

あと、約17年の長期連載ということもあって初期と最終回では作品の雰囲気が異なってしまっていたと感じています。
私は世界観を大切にしている作品が大好きです。漫画においては、どうしても長期連載や作者の絵の熟練度の変化によって絵柄も変わってしまうため、そこはあまり気にしていません。しかし、98年の連載開始時では作品の世界観も当時の年代をそのまま映し出していたように思いますが、現実の時間が進むにつれてキャラたちも現代機器を使う…というのはどうにも納得がいきませんでしたね~。カイの最終コンクール後の安全問題の解決、その話の流れ自体はスッキリできていいと思うのですが、某動画サイトの影響による解決、、というのはカイが阿字野先生に出会ってから数年後に起こりうる話だとはなかなか思えないのです…てかみんなスマホ使ってるし、、

violet evergardenやsoul eaterなどのファンタジーなら世界観をしっかり作りこむ必要があるため、なろう系のように異世界で普通にうどんをたべたりする作品でない限り私が世界観で裏切られることはありません。

しかし、現実世界を用いた物語では作者がそこをあまり考慮していないことも多く、服やメイク、髪形が連載書記と比べて大きく変わってしまうなんてことがしょっちゅうです(特に「君に届け」とか「花より男子」とか…)。

逆に、そこの変化をあまり感じさせない作品は本当に安心して読めるし、リスペクトします。「銀の匙」とか、全然絵柄変わらなくてすごい。

逆に、そこまで世界観なんて気にしないよって人にとっては「ピアノの森」は本当に文句なしの素晴らしい作品です。何回かほろっと来る感じがとてもいい。未読の方は是非。

 

 

英語試験の肌感覚

たくさんある英語試験。色々な試験を受けたり、合格者の話を聞いたりして、各試験のレベルやできるようになることを日本の学習環境に親しい人に伝わりやすいようにまとめてみました。(難易度順)

人によるかもしれないけど、一つの指標になれば。

 

英検三級・・・中学二年生の実力テスト平均越え程度。英語の感覚を理解してなくてもある程度読めて文法を知っていれば勘で受かります。

学び直しの人は、初級文法書を終えたくらいの段階でTOEICとかよりこっちを受けた方が実力がわかるかも。

 

英検二級・・・自分は受けていないので何とも言えませんが、個別塾で生徒を教えている身としては偏差値60以上の高校二年生が受けて受かっているレベルなので、センター試験6-7割くらい、といった感じでしょうか。ちなみに準二級は高校生用の文法書を一通りやれば文法面では大丈夫じゃないかと思います。

 

センター試験8割・・・英検二級が取れれば次はこのあたりが近い目標じゃないでしょうか。試験用の対策本も豊富に出ていますし、この点数が取れればリーディングと語彙にある程度の力がついているので、日本人の苦手意識のあるライティングとスピーキング(あと、リスニング?)の学習がスムーズになるのではと思います。

 

TOEIC800点・・・センター8割の時点で400-500点程度はとれるのではないかと思うので、ここでビジネス英語とリスニングを伸ばし、とにかくたくさん英語に触れることで800点に到達します。ここまでくると、自分の詳しい時事ネットニュースやライトノベル的に簡易な語彙で構成された文章(ラダーシリーズ等)を拾い読み、または数単語を調べながら読むということができるようになると思います。

 

英検準一級・・・難易度としては上記のTOEICとさほど変わらないかもしれませんが、TOEICはビジネス英語のリーディング・リスニングに特化しているためもう少し語彙を増やし、リーディングとスピーキングの力をつけたいところです。この時点で、学習用の新聞なんかを読めるようになっているのではないかと思います。

 

英検一級・・・上記を飛ばしていきなり一級に行くのも良いと思いますが、準一級とは求められるレベルが違うのでワンクッションとしてやはり準一級の学習をした方がよいかもしれません。普段目にしない語彙が頻発するため、語彙力を随分強化する必要があります。英検のスピーキングは難しくないものが多いですが、一級に関してはきちんと対策した方が良いです。普段から少しずつ話す機会のある人はそこまで意識する必要はありませんが、自己啓発のため、なんていう人は対策講座などを受けて形式に対応できるようにしておくべきです。試験合格ごろには、洋書の入門レベル(難しいものでなければ辞書を時々開けば読んでいられる)程度になると思います。

 

私が現在わかるところはここまでです。ここからは、日本ではあまり有名ではない試験に入っていくため、よりマニアックになります。道しるべとしては、

 

国連英検A級、TOEFL100、IELTS7.0 → ケンブリッジ英検

 

みたいになると思います。上記の勉強をしているころには、ネイティブレベルには遠いにせよ国際社会である程度渡り歩いていける英語力を身につけていると思います(というか、そう信じたいです…)。

私もまともに留学を経験していないので、そんな人間がどこまで行けるのかを知りたいです。一緒に頑張りましょう~

 

久しぶりのviviでした。

 

思慮深さは人生を豊かにするか

「味なんてわからない方が、いつも食事を楽しめるんじゃない?」

 

そういう会話を何回かすることがあった。

頻繁に思い出すのは、小学校の給食。家の料理と差を感じてろくに食べない子がいる一方で、何でもおいしそうに食べる子がいる。

自分は、できれば後者に生まれたかったと思う。傲慢なんだろうか。

 

思慮深さは文学作品などで見る分にはひどく尊いものに見えるが、現実世界で相手の思慮深さを慮ることのできる人や相手に言葉として伝えられる人などそうおらず、中途半端な思慮深さは当人を豊かにしないのだろう。
「鈍感力」という言葉がいつか流行ったような気がする。その言葉はなんだか、世界がセンシティブになっていく中での思慮深いコミュニケーションへの「諦め」のようにも感じ取れる。

 

周りが恋愛について考えだした時、中には時間を掛けて恋愛をしている人もいたけど、ほとんどは生き急ぐように次のステップを求める人ばかりだった。そういう人たちは何を考えてそんな風にするのだろうと思っていたけど、きっと彼らは自分たちの関係性や距離感についてそんなに深く考えずに、直感的にやっていたんだろう。

思うに、自分は少女漫画のような恋愛を望んでいる。当事者たちや友人で思う存分話しあって、少しずつ互いに本音を打ち明けられるようになっていくような思慮深いものを。
現実では、そんなことをいちいち考えない方が様々なことを経験できるに決まっているのに。

 

現在の日本人の王道ルートである"大学卒業"からの進路選択へも「思慮深さ」は干渉してくる。
自身の心のままに選択できる人は「アーティスト」や「研究者」など、将来性の分からない職業に頭から突っ込んでいけるのだろう。私は、そんな風にしてとりあえず上京するような人を良く思わない。どうしてもこれからの生活や周りの人の心配などを考えてしまい、気づけば選択肢なんて多くは残っていない。これが正確に「思慮深さ」なのかどうかはわからないけど、結局「どれだけのことに考えを巡らしているか」と「幸せ」には正の相関はなく、むしろ負の相関なんじゃないかって思う事すらある。

 

 

私と間反対の性格の人は、きっとこの文章を見て困惑したり、怒ったりするのだろう。

隣の芝は青い。私は明日からも何かにつけて悩んで悩んで、少しだけ靄が晴れてまた悩んでをずっと繰り返していく。

成長とカオスの衰退

なんとなく生きてたら、今まで考えつかなかったアイデアがぱって生まれ出てくることがある。頭の中には、常に整理して言葉には出せないようなモヤモヤ(カオス、アイデアの端切れ)があって、急にそこから飛び出てくるようなイメージ。

 

こういうとそのモヤモヤはありがたいもののように感じるけど、悩んだりつかれたり、思いつめたりしている時でてくるこれはなかなかに煩わしい。

 

今考えているのは、「このモヤモヤも成熟していくにつれて失われていくんじゃないか?」ということだ。

以前から好きだった米津玄師というミュージシャンがいるけれど、彼の音楽は年を重ねることにその音楽性が変化している。昔の音楽はもっと不完全な感じで、いわばカオスを残したまま世に出しているという感じがあった。伝えたいことがあるけど、うまく伝えられない、みたいな。

今の音楽は透き通っていて、明確なメッセージ性のある音楽を作り上げて世に出している、という感じだ。たくさんの経験や人とのかかわりあいを経て、明確な自分を作り上げてそれを発信している。

 

正直最近の曲はクリーンで整理整頓されているけどあまり好きじゃない。dioramaやyankeeあたりは荒々しかったけど、その代わりに音楽にパワーがみなぎっているような感じだっ…た。...うまく良さが表現できてないな。言語化がどうしても難しいようなその魅力こそが、以前のハチと米津玄師の間くらいに作られたあの曲たちに引き付けられた魅力なのかもしれない。彼は今30歳で、「ハチ」からdioramaまでの期間が2008-2012年だから、当時17-21歳くらいのころだ。もし若い時の感性でしか作り出せないような魅力というものがあるのだとしたら、成熟していない今の自分にしか表現できないものもきっとあるのだろう。

次に小さなアイデアが浮かんできたら、それを忘れずに書き留めておこうと思う。