大学生の日常。

AM FLUSSE

ドイツ語のゲーテの詩を翻訳、解釈します。練習アーカイブです(笑)

 

 

 

 

AM FLUSSE

流れてゆけ 多くの愛を込めた歌

忘却の海の はるか遠くへ

もう若者は 輝き歌うことはなく

華の乙女からも ありはしない

 

愛するひとたちは 私の愛のみを唄い

あのひとはいま その純粋を嗤う

水の中へと 刻まれた詞

そして流れよ ともに其処より

 

タイトルは 流れの場にて みたいな感じです。山口四郎さんの訳を参考にしてみたのですが、詩のルールとか全然知らないのでぐちゃぐちゃになってるかもしれない

初めて詩と真剣に向き合ったけど、小説を一冊読み切ったかのような切なさと重苦しさが言葉から伝わってきてなんか感動しました。

ドイツ語の本がまだ手出せないから、この前カバーがかっこいいと思って勝ったドイツ語のゲーテ詩集、思ったより楽しめそうだ。大学に日本語訳もあったから、すごく有意義に使えててうれしい(笑)

この詩は、ひどい乙女のほうよりも、純真な青年のやるせない気持ちと失恋のつらさが歌を川に流してしまう情景と相まってすごくしっかりと伝わってきます。苦くてネガティヴななのにどうしてもロマンチックです。

 

もしいいなと思った方は、☆をくれたらありがたいです。訳をアップする気力が上がりますので!

あけましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。viviです。

少し遅くなってしまいましたが、新年のご挨拶をさせて頂きました。

 

去年はコロナウイルスによってできなかったことや、得たことがたくさんあった特別な一年になりました。

今年は昨年にできなかったことができるようになることを願っています。そして、昨年できなかったことに多く挑戦していきたいです。

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今年も写真を撮りたい!

 

今年もよろしくお願いいたします。

自分のやりたいことって。

久しぶりに漫画の紹介をしようと思います。

 

去年あたりにボンクラボンボンハウスという短いマンガを読みました。主人公の女の子が大学にいる意味を見つけられず、親に言わずに中退して、さらに親から大学の資金を渡してもらい、周りの人たちと関わりあいながら自分の目標を見つけていくという、なんとも恵まれた女の子の話です。

 

いい身分の女の子だな、と私も考えていましたが、今の日本で自分が大学に行っている意味を真剣に考える人がどれほどいるのでしょうか。将来を考えたふりをしている人たちは「学位を貰ってちょっとでもいい評価を貰うため」なんて言いますが、それは目先にある事実をただ語っただけで、実際に考えてはいないんです。

 

一巻だったかな。主人公は大学を辞めた理由を語ります。

「単位のために興味のない講義を受けて 興味のないこと一生懸命レポートにしてる みんな思ってるよ 意味がないって でも卒業のために就職のために黙ってあそこの中にいる」

自立する手立てすらないのに勢いでやめてしまうのは無謀なことだと思います。ただ、『ここまではこうやってお金をためて、そのあとはやりたいことをこのようにやっていく』というビジョンを少しでも建てられているのなら、それはやるべき価値のあることだと思うし、なによりそうやって自分の理想と現実に向き合って葛藤する、という行動はやはり青年期には不可欠で、とても大事なことだと思います。

 

「スマートに、かっこよく、美しく、自分らしく」このような表現ができている作品、人物、表現などを見てあこがれるのは当然だと思います。なぜならすごくキラキラして見えるから。でも、そのような存在の裏には各々が苦しみ、考え抜いた苦悩や葛藤、鍛錬があります。そのようなものをすっ飛ばして「自己実現」などと息巻いている人たちは、結局世間の想像する範疇の世界でしか生きられないのではないでしょうか(もっとも、それを幸せと思う人もいるので何とも言えないですが)。

私は幸いにも、大学で学びたいことが学べている身です。去年は周りと合わせていたので、授業で学んだことをどのように生かすことができるかなんて考えたこともありませんでしたが、幸か不幸かコロナ禍でそれを考える時間ができました。いつか、私も自分と同じように時代の波をふらふらと泳いでいる人たちに向けて、しっかり考えて悩むことができる機会を与えることができたらと思います。

 

いづれにせよ、自分の道を探したり考えたりすることについてとっかかるにはとてもいいマンガだと思います。高校2年~学部4回生に特におすすめです。

 

ボンクラボンボンハウス(1) (FEEL COMICS)
 

 一話は無料で見れることが多いので、主人公にすごくイラついた人、少し共感してしまう人はぜひ続きも読んで見て下さい。ではでは。

カメラを持つこと

最近はカメラを持っていなかった。

 

理由は単純で、旅行に行かなくなったからだ。旅行に行かないのならカメラを持つ必要もないな..と思って、ここしばらく放置していた...のだが、最近無性に写真を撮りたいと感じる。

どうしてかとおもってなんとなく写真を見ていると、自分は目的地の観光地の写真よりも、空や夕焼け、目的地までの写真の方が好みであることに気づいた。

そのような写真は、どうやらその時の自分の心地よい感覚や記憶をぼんやりと思い出すことができる。そしてそれを現像し、改めて見直しても、「この景色はやっぱり好きだなあ…」と思うのだ。

何が言いたいかというと、私が写真を撮りたいのは目的地の写真などではなく、私自身が気に入った風景を撮りたいのだ。

自分がどういった写真が好きなのか、インスピレーションを受けるのかが知れることがとても興味深く、面白いと思うからだ。

 

デザイン系の学問に着手する教授はよく「街中で気になったものによく注目しろ。」といった類のことをよく仰るが、それはそういうことなのかもしれない。

平等であるべきか

家の手伝いは子供であるならすべきだと思ってはいた。

それが子供の恩返しの一つであり、一番踏ん張っている母を助ける手段だと思ったからだ。

でも私はやらなかった。それはほかの家族がやらなかったからだ。ほかの家族がやらないのに、自分だけが時間を割いて手伝いをするというのは不平等じゃないかと思ったからだ。

その平等は正しい考えなのだろうけど、その考えを尊重する必要はなかった。

 

学生の身なのでアルバイトに行くわけだが、今の御時世どこもかつかつの状態で日々業務に臨んでいる。そんな中で、現場の社員たちはみな自分のキャパシティーに合わせて仕事を行っている。当然、一番仕事ができる人に基準を合わせたら、フィジカルかメンタルどちらかで耐えられなくなる人が現れる。

だからと言って、仕事量が多い人が「不公平だ!」と言ってしまえば、全体としての仕事効率を下げざるを得なくなり、仕事がうまく回らなくなってしまうだろう。キャパシティーに余裕のある人間は、その分多く働く事がやはり望ましいのだ。

 

そう考えると、私の場合重きを置くべきなのは横から単純に見た平等さではなく各個人のキャパシティーなのであり、その観点でいうと私はとんでもない怠け者だったわけだ。余裕のある時は、手伝いをする努力をしようと思う。

 

…何と恥ずかしいブログだ。